
今日は妻と、近くの江戸川区親水公園へ、土筆(つくし)を採りに
行きました。
この公園は、毎年弁当をもって、桜を見に行く場所ですが、
川の土手にスギナがなっているのを見て、来年は早めに
土筆(つくし)を採りに来てみようといつも妻と話していま
したが、毎年、土筆のことなど忘れて、桜を見に来る度に、
来年こそはと二人で思うのでした。
でも、今年は土筆のことを思い出し、暖かい春の陽気の中、
二人ででかけました。
時期は少し過ぎて、既にスギナが土手に群生していましたが、
それでも土筆があちこちに顔を出していました。
子どもの頃は、早春のこの時期に、よく土筆をとって遊んで
いましたが、こうして土手にかがんで土筆をとるのは、何十年
かぶりでした。
陽だまりの中、懐かしい思い出とともに土筆を素手で摘んでいる
と、土の香り、水の匂いが身体の中に染み込んでくるようで、
私の中の何かが、再生されていくような感じでした。
辺りの木や草をサワサワと振るわせながら、春の息吹が、まるで
見えない生き物のように通り過ぎていきます。
私と妻は手を休めて立ち上がり、先日観た映画「SPIRIT」のワンシーン
の真似をして、両手を拡げてそのエネルギーを迎い入れます。
(「SPIRIT」の主人公であるフォ ユァンジャ(実在した中国武術の達人)
の絶望と悲しみの傷を癒し、生きることの本当の意味を気づかせた
美しい山村の人々は、田植えのときに風が山から降りてくると、
その度に手を休めて、その風をまるで感謝の祈りのように両手を拡げて
迎い入れるのです)
こうしてゆっくりと生きること、何かを丁寧に感じていくこと、
そして自分の身体の感覚を、喜びとともに知ることを、私たちは
すっかり忘れてしまっているのだと、土で汚れた手を見ながら
思いました。
そう、土筆がなっているのも忘れ、また気づかず、慌ただしく
時を過ごし、季節は瞬く間に過ぎていくように感じ、いや、それ
すらも分からず、ただ邁進しているだけのように思いました。
こうして、立ち止まり、周りや足元を見てみると、そこは生命で
あふれた、祝福の宴がなされているのです。
いつの時も。
どんな時も。
風が吹き、水が流れ、絶え間ない生命の循環が・・・
いつの時も。
どんな時も。
とわに。
とこしえに。
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